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「俺には何もない」と
言った夫が
ニートを卒業するまでの話

夫と初めて会ったとき、私は会社員のかたわらスナックのカウンターに立ち、雇われママをしていた。薄暗い店内に入ってきた夫は猫背で背が高く、若い男の子、という印象だった。実際、夫は私より13歳も若かった。

店がやや賑わいはじめた頃、他のお客さんが夫に聞いた。「普段は何をしているの?」夫はためらいもせずに「ニートです。大学を出てからずっと」と答えた。お客さんは驚いて、再度「えっ? ほんとに何もしていないの? 夢とか、アルバイトとか、何かあるでしょ?」と聞く。

夫は悪びれることもなく「はい、マジで僕、何もないし、何もやってないんですよ。実家からの仕送りで暮らしてる、ほんとのニートなんです。......クズですかね?」と言い、照れたように笑った。3年前のことだ。

私と夫は"スナックのママと客"としては初めて会ったが、その前にインターネット上で出会っていた。お互いがお互いのブログの読者だった。文章をきっかけにして興味を持ち、やりとりをするようになったのが最初の出会いだった。

ある日、日常で他者との関わりがないことを嘆いていた夫に、スナックに来てみないか、と誘った。 ありがたいことに、スナックには様々なジャンルの友人が集っていて、共通点は「インターネットが好きなこと」だった。インターネットという共通点があれば、夫も場に馴染むだろうと踏んでの誘いだった。

ブログを通じて夫がニートで、大学を出てからもずっと親の仕送りを受け仕事もせずぶらぶらとしていることは、顔を合わせる前から知っていた。知っていたが、他人がどうこう言うものでもないとも思っていた。夫とその家族の合意が形成できているのなら、あとは各家庭の勝手だろう。その程度だ。

ともあれ、私は夫が書く文章が好きだった。夫の文章は、自分にないものを感じる。風景や内面を描写する言葉選びの的確さ、葛藤や内省をすんなりと他者に提示できてしまう素直さに憧れていた。スナックには、同じように日々についてのブログを書く友人もよく来ていて、私は彼らの文章も大好きだった。

文章で感じる彼らと、対面で感じる彼らは似ているが少し違う。対面で会うと、目に見えない薄いガラスの膜みたいなものが、彼らの周囲を「鎧」のように覆っている気がする。

だが、夫の場合は違っていた。文章から受ける印象と、本人の印象に差異がない。いままで知り合った人の中では珍しく、ガラスの覆いがない人のように感じた。それは夫が社会人生活を送らないまま、モラトリアム期間を延長し続けているからだ、というと安直かもしれない。

「俺には何も守るものがないからじゃない?」と本人は言う。いわゆる「大人」のように、立場だったり肩書きだったりといった守るものがないから、ガードする必要もないのだ、と。そういう「生き抜く術」のような技巧を、対面しても感じない人だなと思った。

あるとき、私は映画のパンフレットに文章を書く仕事の依頼を受けた。初めて受ける種類の仕事にどう書いたらいいのか迷いあぐね、結局、監督の語りをベースにした、自分主観のエッセイのようなインタビューを仕上げた。

しばらくして、その映画を観に行ったという夫が、映画のパンフレットを片手に突然スナックへやってきた。わざわざ感想を伝えに来てくれたのだ。彼は今まで読んだ本や知識をもとに、私が書いたパンフレットのテキストがどんなふうに良かったか、どんなふうに価値があるのかを教えてくれた。

思い入れの強い文章だったので、初めは照れたが、心底うれしかった。同時に、この人は何が良かったか、どう良かったかを伝えるための「言葉」を見つけるのが上手な人だなという印象が残った。

そんなことが重なり、親しくなると、必然と彼の「何もしていない」という「普段」のことが話題にのぼる。聞くと、読書と散歩、たまに映画やライブへ足を運ぶ以外には、本当に何もしていないようだった。だが、ブログは続いていた。また、友人の伝手で無償だがメディアへの寄稿もしているようだった。見るものすべてを文章に落とし込もうとする模索を見て、「あれ? この人、書く仕事がしたいんじゃないの?」と単純な疑問がわいた。

そうして話を聞いてみると、子どもの頃、創作文の授業で褒められた思い出を話してくれた。大人になった今でも、記憶は鮮やかだった。こういうディティールの登場人物で、こういう個性をこういうストーリーで書き分けて、それをこんなふうに褒められて......と語る夫を見て、やはり文章を書く仕事をしたほうがいいのでは、と思った。

目に見えない何かのアウトラインをつかみ、自分の中で咀嚼し、文章として外部出力するための装置が、夫には備わっているようだった。それは「表現欲」とか「文章力」というものなのかもしれない。自分が書き続けて気づいたのは、その装置がない人にはそうしたい気持ちがまったくなく、ついている人は使わずにはいられない、ということだ。もちろん技術力という意味でグラデーションはあるが、「文章が書ける人」というのは、「書かずにはいられない人」のことだと思う。

いずれにせよ、職を得る上で重要なこと――『他者とは違う何か』は、そこにあるように思われた。

たまたま縁があり、あるウェブサービスを運営している私の知人に夫を紹介することになった。夫が面談に足を運ぶと、ちょうど外部ライターを探しているという。ウェブメディア花盛りのなか、いましかチャンスはない。夫はその仕事を受けることにした。

手探りで仕事を始めた夫だったが、すぐに熱っぽく担当したインタビューやライティングの仕事について語ってくれた。知らない相手について調べ、本人に疑問をぶつけられる面白さ、表には出てこない裏方仕事の細やかさ、そしてそれを文章でどう伝えるかの難しさ。それは単に「初めての経験をした」という興奮からくるものだったのかもしれないけれど、話を聞いているわたしもワクワクするものだった。

そして話を聞いていて「彼にはこの仕事が合っているかも」と感じる部分がところどころにあった。それは「もっとこうしたい」という「欲」だった。「欲」を持てるかどうかが、その仕事を続けられるかどうかの分かれ目になる。夫は書く仕事に「欲」を感じているように見えた。

もちろんその欲を満たすのは簡単ではなかったようだが、文章修正に何度も対応したり、苦手な電話アポイントも試行錯誤を重ねるなど、根気強く食い下がった成果は「受注」という形で目に見えるようになる。実際、わたしの出産に立ち会いながら、深夜まで原稿の修正をしていたこともあったし、楽しみにしていたライブを諦めたこともあった。

仕事をしている身からすると当然のことなのかもしれないが、夫にとっては大事件だった。一日中横たわっているだけのニートだったのが、大幅に人生の優先順位を変えることになったのだ。読書やライブなど、自分の「したい」ことだけをしていればよかった人生が、調整ごとや苦手な電話アポイントなど「したくないけど必要なこと」もやらなければいけなくなった。「立場が人を育てる」とはよく言ったものだ。必要に迫られてとはいえ、夫は次々とできることを増やしていった。 その粘り強さもあってか、ライターとしての信頼を得た彼の元に、仕事の依頼が舞い込むようになった。そして、晴れてニートを卒業した。一緒に住みはじめて、生活費が折半できるくらい夫が稼げるようになったときにはふたりで喜んだ。「自分には何もない」と言っていた夫が、文章でお金が稼げるようになったのだ。

ここで言いたいのは、人は「自分には何もない」と思っていても、必ず「何かある」ということだ。それは必ずしも得意なこととは限らない。「得意とは言えないが苦にならない」「好きではないが人より簡単にできる」、そういうことが、前述したように職を得る上で重要な「他者とは違う何か」に当たるのだと思う。夫の場合、それが「文章を書く」ということだったのではないだろうか。

仕事を探す上で、「好きなこと」「やりたいこと」にフォーカスするのは簡単だ。だがそれは諸刃の剣で、「好きなこと」「やりたいこと」がない人にとっては、仕事を選ぶ基準がないことになってしまい、残酷だと思う。夫のように、「好きではないが人より簡単にできる」を基準にして職を選び、一歩を踏み出してみるのも仕事の探し方のひとつではないかと思う。その結果、選んだ仕事が自分にフィットする可能性もある。

大切なのは「職を得て生き抜くこと」であり、「好きなこと」と「生き抜く手段」が必ずしも合致していなくたっていい。もちろん、合致させるための努力を否定するわけではないし、それを理想として探し続けてみるのもいいと思う。

もしいま、これを読んでいるあなたが、「好きなこと」と「生き抜く手段」が合致していなかったとしたら、「苦にならない」「簡単にできる」ことは何かも、一緒に探し続けてほしいと思う。あなたが自分と向き合って見つけた「何か」が、たとえ好きなことじゃなくたって、まったく問題はないのだ。そんなことで、働くあなたの価値は毀損されないのだから。